Lewis Carroll(1832-1898) : Sylvie and Bruno Concluded (1893)
Translated into Japanese by tubo_kun, all rights reserved.



             第二章  愛の晩鐘
 
 
 『フェイフィールド駅! エルヴェストン方面のかたは乗り換えです!』
 
 こんなありきたりの言葉には、どんな些細な記憶が結びつきうるものだろう
か。ぼくの脳には、こんなにも幸福な思考の洪水を起こすほどの記憶だった。
歓喜いっぱい、興奮状態でぼくは客車を降りた。この状況を、初めは自分でも
説明できないほどだった。というのも、まさにこの同じ旅行を、確かにぼくは
六年前の同じ時間にもしていたのだから。しかし、あれ以後たくさんのことが
あった。ひとりの老人の思い出(*01)も、いまでは、かすかな影を残してい
るにすぎない。ぼくは《失われた環》を探し求めたが、無駄なことだった。と
突然、一脚のベンチの光景がぼくの目に映った。ひとけのないプラットホーム
にただひとつだけ置かれたベンチだ。そこにひとりの女性が座っている。その
とき、忘却されたシーンの全体が、あたかもそのまま再現されているかのよう
に生き生きと、ぼくの頭に閃いたのだ。
 
 「そうだ、」ぼくは思った。「このがらんとしたプラットホームは、親愛な
る友の記憶で満たされているのだ! 彼女は、ちょうどあのベンチに座ってい
た。そしてぼくにも座るようすすめてくれた。シェイクスピアから言葉を引い
て−−どんな言葉だったろうか(*02)。伯爵の言っていた《生活の劇化》法
(*03)を試してみよう。もしや、あの人はミュリエル嬢ではないだろうか。
いや、早合点はよそう!」
 
 それでぼくは、その普段着の旅行者が忘れもしないミュリエル嬢その人であ
るという「ふりをしよう」(子どもはよくこういう言いかたをする……)と決
めこんで、プラットホームをぶらぶら歩いていった。彼女が顔を向こうへ向け
ていたおかげで、ぼくが自分に思いこませようとしていた作りごとは破綻せず
にすんだ。楽しい幻想をもっと長びかせるため、向こう側からも見てみようと
思ってベンチを通りすぎた。注意して通り過ぎたのだけれども、いざそこで振
り返り、戻ろうと思ったとき、その人の正体を目にしなければならない羽目に
なってしまった。なんと、それはミュリエル嬢その人だったのだ!
 


 いまや場面の全体が、ぼくの記憶に生き生きとよみがえってきた。この場面
の再現をさらに不思議にしていることには、あのときと同じ老人までがいたの
だ。あのとき、上等の乗客に席をあけるため駅長が手荒に追い払った、あの老
人が。確かに同じ老人であるが、ただ「違い」がひとつだけあった。今はもう、
老人はプラットホームで弱々しくよろめいているのではない。ミュリエル嬢の
隣に腰かけ、彼女と会話しているのだ! 「さあ、これをあなたのお財布の中
に」と彼女は言っていた。「いいですわね、全部ミニーちゃんのために使って
あげなくちゃだめよ。何かあの子に素敵なものを持っていってあげて。あの子
にとってほんとうに役立つものを。それと、あの子によろしくって伝えてくだ
さいね!」彼女はとても熱心に話していたから、ぼくの靴音に目をあげ、ぼく
の顔を見たときも、最初はぼくが誰であるのかにさえ気づかなかった。
 
 近づきながら、ほくは帽子を上げた。すると彼女の表情に心からのよろこび
が閃いた。その表情が、まえにケンジントン公園で会ったシルヴィーの愛らし
い顔をあまりにも正確に思い出させるものであったから、ぼくはすっかりうろ
たえてしまった。
 
 隣席のまずしい老人の迷惑になるよりはと、彼女は立ちあがり、ぼくといっ
しょにホームを行ったり来たりした。ぼくらの会話は、初めのうちは単なるロ
ンドンの客間の平凡なふたりの客人みたいに、まったく取るに足らない、あり
きたりのものだった。最初のうちは、ふたりとも、おたがいの人生を結びつけ
るような深い関心事に触れることに対して、気おくれしているみたいだった。
 
 エルヴェストン行きの列車はホームに入っていた。ぼくらは話していたが、
「こちらです、お嬢さま。そろそろお時間でございます」という駅長の媚びた
指示に従って、列車に乗りこむまでの道のりを活用してしゃべった。その列車
でただひとつの一等車は、ホームの端のほうにあったのだ。誰も座っていない
ベンチを通りすぎたとき、ミュリエル嬢はそこに財布が落ちていることに気づ
いた。彼女からの贈り物が大切にしまいこまれている財布だ。持ち主は、財布
を落としたことにまったく気づかず、列車のもう片方の端にある客車に乗せて
もらっているところだった。彼女はすぐさま財布をつかんだ。「かわいそうな
おじいさん!」彼女は叫んだ。「行ってはだめ! きっと落としたことに気が
ついていないんだわ!」
 
 「ぼくが届けましょう! あなたよりは脚が速いから!」と、ぼくは言った。
が、その時にはもう、彼女はホームを半分ほど「飛んで」(これほど妖精的な
動作には「走って」という言葉は俗っぽすぎる)いってしまっていた。ぼくな
どがどれだけがんばっても絶望的にとり残される、たいへんな速さだった。
 
 ぼくのずうずうしい駿足自慢がまだ終わらないうちに、彼女は戻っていた。
そして客車に乗りこみながら、彼女は真顔でこう言っていたのだ。「でも本当
に、あなただったらもっと速くできたとお思いになって?」
 
 「いや、とんでもない!」ぼくは言った。「ひどい誇張の《有罪》を認めま
す。法廷の計らいに身をゆだねます!」
 
 「法廷は看過します−−今回に限り!」このとき彼女の物腰は、いたずらっ
ぽい態度から、突然不安げな真剣さに変わった。
 
 「あなたはご自分の最善をわかっていらっしゃらないんだわ!」彼女は心配
そうな目をしていた。「実際のところ、前にお別れしたときよりも、あなたは
弱っていらっしゃるように思えるんです。ロンドンがあなたの意見に同意する
かどうか、わたしは大いに疑っていますよ」(*04)
 
 「ロンドンの空気のせいかもしれないし」とぼくは言った。「過労のためか
もしれない。あるいはむしろ孤独な生活のせいかもしれない。ともかく、さい
きんはあまり調子がよくないんですよ。でも、エルヴェストンはぼくをすぐ回
復させてくれるでしょう。アーサーの処方してくれたのは−−かれはぼくの医
者なんですが、今朝手紙をもらいましてね−−《いっぱいのオゾン、新鮮なミ
ルク、たのしい社交》なんです!
 
 「たのしい社交ですって?」ミュリエル嬢はかわいらしくものを考える仕草
をした。「さあ、どこに行けばそんなものがあるのか、わかりませんわ! こ
こには隣人がほとんどいませんもの。でも、新鮮なミルクなら都合がつくわ。
おさななじみのハンターさんが、あの丘のほうにいるんです。彼女のところか
らいただくといいわ。品質は折り紙つき。彼女のお嬢さんのベッシイちゃんが
毎日学校にいくときあなたの宿のところを通りますから、届けてもらうのも簡
単だし」
 
 「よろこんでアドバイスに従わせてもらいましょう」ぼくは言った。「明日
さっそく手配します。アーサーも散歩したがると思いますので」
 
 「軽い散歩になりますわ−−三マイルにもならないと思います」(*05)
 
 「ところで、そのことはいいとして、さきほどあなたが指摘してくださった
ことを、あなた自身に対しても問い返させてください。あなたのほうだって、
ご自分の最善をあまりよくわかっていらっしゃらないように思えるんです!」
 
 「たぶん、そのとおりですわ」低い声で彼女は答えた。急にその顔に影が広
がったように感じられた。「このごろは厄介事がいくつかあって、そのことで
あなたに相談したいとずっと思っていたんです。でも簡単には手紙に書くこと
ができませんもの。こういう機会があって、ほんとうによかったわ!」
 
 少しの間沈黙があって、それから彼女は「どうなのでしょう、」とつづけた。
彼女には珍しく、まごついた様子がはっきりと見てとれた。「よく考えた上で
厳粛に結ばれた約束というものは、常に拘束力を持つものだとお思いになりま
す?−−もちろん、約束を果たすことが何らかの《罪》になるような場合は別
として、ですけど」
 
 「それ以外の例外を、いまは思いつくことができませんね」ぼくは言った。
「そうした決疑論(*06)の派生物は、ふつう誠実と不実の問題として扱われ
るはずですが−−」
 
 「たしかにそれが原則ですわね?」彼女は熱っぽくさえぎった。「それにつ
いて、聖書の教えにこんな文言がありましたわね。わたしはいつもそれを思っ
ていました……《隣人について偽証すべからず》と」(*07)
 
 「ぼくも、そのことを考えていたところです」ぼくは答えた。「ぼくにはこ
う思われるんです。つまり、その《うそをつく》ということの本質は、相手を
欺こうという意図なのです。心から守ろうと意図して約束を結ぶなら、《その
ときは》確かに誠実に行動していたのです。また、あとになって約束を破って
しまうとしても、そのことは、何ら《人を欺く》ことにはなりません。それを
《不実》と呼ぶことは、ぼくにはできません」
 
 ふたたび沈黙が生じた。ミュリエル嬢の表情は読みがたかった。喜んでいる
ようにも見えたし、困惑しているようにも思われた。彼女の質問が、リンドン
大尉(現在は少佐)との婚約解消に何か関係があるのではないか、とぼくは疑
い始め、そのことを知りたいという思いにかられた。
 
 「おかげで、おおきな不安からは救われました」と彼女は言った。「でも、
ともかく事は間違っていたのですね。それが過ちであると証明するには、どん
なテクストを引用してくださいますの?」(*08)
 
 「《借金》の返済を強制執行させるような場面ならどれでも。もしAがBに
何か約束するなら、BはAに対して請求権を持ちます。そしてもしAが約束を
破るなら、そのAの罪は《うそ》というよりは《盗み》のほうに類比されるよ
うに思います」(*09)
 
 「それは新しい見かたですわ−−わたしにとっては。でも、それもまた《正
しい》見かたのように思われます。ただ、あなたのような旧友を一般論で扱う
つもりはありませんのよ! だって、ともかくわたしたちは旧友なんですもの。
ご存じでした? わたしが思うに、わたしたちは古いともだちとして始まった
んですよね」いたずらっぽく彼女は言ったが、その調子は、両目に光る涙とは
まったく調和していなかった。
 
 「そんなふうに言っていただいて、ありがとう」ぼくは答えた。「ぼくもあ
なたのことを《古い》ともだちとして考えたい」(「−−もっとも、あなたは
古くなんか見えないけれど!」と続ける必要が、ほかの女性に対してならあっ
ただろう。しかし彼女とぼくは、そんなお世辞や、その類のありふれたつまら
ぬ言葉が出てくるような時間を、もう遠く過ぎてしまったような気がしたので
ある。)
 
 ここで列車がある駅に停まり、二、三人の乗客が乗りこんできた。それから
後は、目的地につくまで、ぼくらは何も話さなかった。
 
 エルヴェストンに着いてから、ぼくは彼女に、いっしょに歩いていきません
かと提案し、彼女はこころよく受けいれてくれた。荷物を−−彼女のは駅で出
迎えた従僕に、ぼくのはポーターに−−しかるべく預けると、すぐにぼくらは、
なじみ深い通りを出発した。通りは、ぼくの記憶の中で、たくさんの愉快な連
想と結びついていた。やがてミュリエル嬢が、さきほど中断したところから会
話を再開した。
 
 「あなたは、エリックとわたしの婚約のことをご存じでしたわね。それじゃ、
あのことも−−」
 
 「ええ」くわしい話をするのは彼女にとって苦痛だろうと思ったので、ぼく
は途中で口をはさんだ。「その話なら、すべて終わったと聞いています」
 
 「何があったか聞いてほしいんです。この話にこそ、あなたのアドバイスが
ほしいんですから。かれとわたしは信仰のことで考えが共通していない、とい
うことは、それまでもわかっていたんです。かれのキリスト教の観念は、とて
も空虚なんです。神の存在ということについてすら、かれはまるで夢の世界に
住んでるんです。かれの生活に、そのことが何の影響も与えていないんです!
まったくの無神論者のほうが、盲目のまま歩いていながらも、よほど純粋で気
高い人生をおくっているかもしれない……とまで、今となっては感じています。
もしあなたが善い行いというものを半分でも知っているなら−−」(*10)こ
こで突然言葉を打ち切って、彼女は顔を向こうへ向けたのだった。
 
 「まったくあなたに賛成です」とぼくは言った。「そのような人生は必ず光
へ導かれるであろう……という、われらが救い主ご自身の約束がありませんで
したか?」
 
 「ええ、知っています」顔をそむけたまま、彼女はとり乱した声で言った。
「わたしはかれにそう言ったんです。信じられるならわたしのために信じよう、
とかれは言ってくれました。かれは、《わたしのために》、わたしと同じもの
の見かたをしたいと願ってくれたんです。でも、そんなのは全くの過ちだった
のよ!」激情とともに、彼女はつづけた。「そんな低劣な動機など、神は認め
てくださらなかったのよ! それでも、わたしのほうから婚約を解消したので
はないんです。かれがわたしを愛してくれていることを知っていたし、わたし
は《約束》した。それに−−」
 
 「では、婚約を解消したのはかれのほうだと?」
 
 「かれは無条件でわたしを手放したんです」ようやく彼女はわたしのほうに
顔を向けた。もう、いつもの穏やかな物腰を回復しつつあった。
 
 「それでは、どんな悩みが残っているというんですか?」
 
 「つまり、かれが自由意志でそうしたとは思えない、ということなんです。
単にわたしのためらいの心にけりをつけさせるため、かれがじぶんの意志に反
してそうしたのだと仮定すれば、わたしについてのかれの請求権は、今でも強
く残っているということにならないでしょうか? わたしの《約束》は、相変
わらず拘束力を持っているのではないでしょうか? 父は『そんなことはない』
と言ってくれますけど、父はわたしを愛するがゆえに偏った見かたをしている
んじゃないかとも思わずにはいられません。そして、父以外は、だれにも相談
したことがありません。おともだちはたくさんいるけど−−みんな明るい晴れ
た天気向きのともだちなんです。人生の雲や嵐に向いたともだちじゃないんで
す……あなたのような《旧友》じゃないんです!」
 
 「少し考えさせてください」とぼくは言った。それからしばらくの間、ぼく
らは黙ったまま歩いていた。こんなに純粋な優しい魂に起こった辛い試練を見
ると、ぼくの心は痛んだ。葛藤する動機のもつれの中から、ぼく自身の道をさ
がそうと懸命になったが、むだなことだった。
 
 「だがもし彼女がかれを本当に愛しているのなら」(ぼくはついに問題への
手がかりをつかんだように思った、)「彼女にとって《そのこと》は、神の声
ではないだろうか? かれのところへ遣わされることを彼女が望んでいけない
わけがあるだろうか? ちょうど盲目となったサウロのもとにアナニヤが遣わ
され、そのためにサウロの目が再び開かれたように……」(*11)アーサーが
つぶやいているのが、ふたたび聞こえたような気がした。《妻よ、いかで夫を
救い得るや否や知らん?》と(*12)。それから、ぼくは沈黙を破ってこう言っ
た。「あなたが、まだ本当にかれを愛しているのなら−−」
 
 「愛していないわ!」彼女は、急いで口をはさんだ。「少なくとも−−あの
ころのようには。約束をしたときには、きっとわたしはかれを愛していたのだ
と信じています。でも、わたしは幼すぎました。いまとなっては、判りかねま
す。でも、そのころの気持ちがどうだったにしても、それはもう死んでしまっ
たのです。かれ側の動機は《愛》ですけど、わたしのほうは−−《義務》なん
です!」
 
 ふたたび長い沈黙があった。思考の混乱のすべてが、さっきよりひどく、も
つれてしまった。そしてこんどは彼女のほうが沈黙を破った。「誤解なさらな
いでくださいね!」と彼女は言った。「わたしの心はかれのものではない、と
いうのは、ほかのだれかのものだという意味ではないんですよ! いまのとこ
ろ、わたしはかれに縛られているような気がするんです。わたしが、神の前に
おいて、かれ以外の誰をも愛することがまったく自由であると自覚できるでは、
ほかのひとのことなどは、考えさえしないでしょう−−あのころのようには。
つまり、そういう意味なんです。すぐにでも死んでしまえたらいいのに!」こ
の心優しいともだちが、こんなにも激烈な言葉を発することができるなんて、
想像したこともなかった。
 
 「館」(*13)の門の近くへ来るまで、もうあえて掘りさげた話をしなかっ
た。が、義務というものは、彼女が払おうとしているような人生の−−たぶん
幸福の−−犠牲を要求するものではないのだ、ということが、ぼくには熟考す
るほどに明らかになってきたのだった。彼女にとってもこのことが明らかにな
るように、ぼくは話をしてみた。それから、相互の愛が欠落しているような結
びつきには、必ず危険が待っているものだ、という警告もつけ加えた。「この
ことについての、ただひとつ考えるに足る議論は」結論として、ぼくは言った。
「かれがあなたを約束から解放する気になれない、という仮定にあるようです。
この議論に、すべての重きを置いてみました。ぼくの結論はこうです。つまり、
そうしたことは、事例の諸権利に影響を及ぼすものではないし、かれがあなた
に与えた解放を無効にするものでもないということです。あなたは、いま、まっ
たく自由に、自分が正しいと思うとおり行動していいのです。ぼくはそう信じ
ています」
 
 「ほんとうに、あなたに感謝します」誠意をこめて彼女は言った。「どうか、
そのように信じてください! わたしには、そのことを言葉できちんと言うこ
とができないけれど!」問題は双方合意の上で決着した。あとになってわかっ
たことだが、ぼくらのこの議論は、長らく彼女を責めさいなんでいた疑念を追
い払うために、本当に役立ったのである。
 
 「館」の門の前で、ぼくらは別れた。アーサーは、ぼくの到着を今か今かと
待っていたのだった。夜になって別れるまでに、ぼくは話の全体を聞いた−−
結婚式がとり行われ自分の運命が厳然と決定されてしまうまではこの地を離れ
ることなんてできない、と思いつつ、旅立ちの日を延びのびにしてきたこと。
結婚準備とご近所の興奮が、いかに突然の終焉を迎えてしまったか。その婚約
が双方合意の上で解消したことを(別れのあいさつに来たリンドン少佐から)
知らされるや、外国行きの計画をただちに捨て、自分の新しい希望が真と出る
か偽と出るか、それまでともかく一年なり二年なり、エルヴェストンにとどま
ろう、と決心したこと。そして、忘れもしないその日から、彼女が自分のこと
をどう思っているのかについての確証がないままに彼女に会ってしまって自分
の気持ちが裏切られるのではないか、と恐れるあまり、ミュリエル嬢と顔を会
わせることを一切避けてきたのだ……という話を聞いたのである。
 
 「でも、そういうことが全て起こってから、もう六週間にもなるんです」と、
さいごにかれは言った。「いまはもう、何のわだかまりもなく、ごく普通に彼
女に会うことができます。こういう話を全部手紙に書けたらよかったんですが、
ただ、その……つまり、お話することが、《もっと》出てくるんじゃないかと
思って、毎日それを期待していたものですから……」
 
 「ばかだなあ、どうして《もっと》などということがあるものかね」浅はか
にも、ぼくはせきたてた。「彼女との距離がさらに近づいたというのでなけれ
ば? 彼女から結婚の申し出があるのを期待しているのかい?」
 
 アーサーは、つられて笑った。「いや、《そのこと》はほとんど期待していま
せんけれどね。ぼくは、たんなる絶望的な臆病者です。それは疑う余地のない
ことです!」
 
 「それで、婚約解消の《理由》が何なのか、きみは聞いているのかい?」
 
 「いっぱいね」と彼は答え、指を折って数えはじめた。「第一に、彼女は−−
何かのために死にそうな思いであった。それゆえ彼が婚約を破棄した。それか
ら、彼が−−何か別のことのために死にそうな思いであった。それゆえ彼女が
婚約を破棄した。それから、少佐がばくちの常習者であることが判明した。そ
れゆえ伯爵が破棄した。それから伯爵が少佐を侮辱した。それゆえ少佐が破棄
した。あらゆることを考慮すると、たくさんの破棄があったわけですね」
 
 「もちろん、それはみんな、本当に確かな筋の話なんだろうね?」
 
 「確かですとも! かつ、もっとも厳格なる信用をもって伝えられたのです!
エルヴェストンの社会にいかなる欠陥があるとしても、《情報の欠乏》はその
なかに含まれないでしょうね!」
 
 「そしてまた、《遠慮》もだろうね。しかし、まじめな話、きみは本当の理
由を知っているのか?」
 
 「いいえ、まったく闇の中ですよ」
 
 かれを啓蒙する権利がぼくにあるとは思えなかった。それでぼくは、「新鮮
なミルク」という、たいしておもしろくもない件へと話題を転じた。ぼくがハ
ンターさんの農場へ翌日歩いていく、ということで合意した。アーサーは道案
内を約束してくれた。そのあと、ぼくらは事務的な用事へと立ち戻らなくては
ならなかった(*14)。

                          (第二章おわり)◆

【訳註】
 
 *01 正篇第五章で駅のベンチから追い払われた、みすぼらしい老人。その
    記憶は、エルフランドの王(シルヴィーとブルーノの父)の姿と重ね
    合わされています。
    
 *02 正篇第五章でミュリエル嬢が『ハムレット』一幕五場から引用した、
    「休め休め、心かき乱されたる亡霊よ!」(柳瀬尚紀訳)というフレー
    ズを指します。ちなみに坪内逍遥訳では「はて、さう気を揉まずとも、
    安心めされ安心めされ!」。
    
 *03 ミュリエル嬢の父エインズリー伯爵。いい年して、この人も「ぼく」
    やミュリエル嬢のヘンな話題にけっこう乗ってきます。「現実の生活
    を演劇としてみれば……」という話題は、伯爵と「ぼく」の間で正篇
    第二二章において語られました。「人生とは、アンコールも花束贈呈
    もない芝居である」と伯爵は述べたのです。この話題は、「人生は、
    ひとつの夢にすぎないのだろうか?」という、この小説の根幹テーマ
    にも関わっています。
    
 *04 作者自身が、本書執筆などの過労もあって、ひどく衰弱していたよう
    です。本書が出版されたのは作者が亡くなる五年前ですが、このころ
    には、すでに偏頭痛の発作で「動く城砦」が見えたり、朝の礼拝中に
    気を失ったりしています。
    
 *05 三マイルは五キロ弱。健康法としての「散歩」は、作者自身にあって
    は偏執的なまでに過剰なものとなっていたようで、このため逆に健康
    を害することになりました。食事もろくにとらず、ときには二七マイ
    ル(約四三キロ)もの「散歩」をしたといいます。
    
 *06 決疑法ともいいます(casuistry)。 特定の行為の道徳的善悪(正邪)
    を一般的な習慣や律法・聖書などに照らして決定しようとする立場の
    ことです。
    
 *07 『出エジプト記』第二O章一六節。いわゆる《モーゼの十誡》の九番
    目。
    
 *08 ふたりとも読書家で、このあたり引用合戦の趣があります。いましが
    た旧約聖書からの引用があったばかりでもあり、ここは当然、ミュリ
    エル嬢としては書物(テキスト。とくに聖書の本文)からの引用を期
    待していたのでしょう。けれども「ぼく」の答えでは、「テクスト」
    という語を「文脈・論題」というような意味に拡張しています。
    
 *09 この文脈でいう《うそ》が、当然のようにいきなり債務の不履行やら
    《盗み》と対比されているのは、前記《モーゼの十誡》において《う
    そ》とは偽証であり、また《盗み》の禁止が《偽証》についての記述
    の直前(八番目)で述べられてもいるからです。
    
 *10 『ルカによる福音書』第一九章第一節〜第一O節で、自分の財産の半
    分を貧民に施すことを約束した取税人ザアカイについての記事を指す
    と思われます。
    
 *11 『使徒行伝』第九章第一節から第二O節参照。サウロとは、かつてイ
    エスを迫害する立場にあったパウロのこと。天からの光によって盲目
    になりましたが、キリストの弟子アナニヤの訪問によって癒され、た
    だちに回心しました。
    
 *12 『コリント人への第一の手紙』第七章第一六節より。正篇第二五章に
    おいてもアーサーの台詞のなかで引用されていました。
    
 *13 「館」はミュリエル嬢と伯爵が夏の間滞在している別荘です。
    
 *14 「用事」は engagementで、「婚約」と同じ語。この章でさかんに出
    てきたこの言葉を、章の一番最後に別な意味で出してきたわけです。
    「カカアずらう」なんて訳すと雰囲気壊しそうなので、ふつうに訳し
    ました。



         Lewis Carroll (1832-1898): Sylvie and Bruno Concluded (1893)
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                                           Chapter II / Love's Curfew

                                                        Japanese text
                                      copyright(c) by tubo_kun, 1994.