![]() |
Lewis Carroll(1832-1898) : Sylvie and Bruno Concluded (1893) Translated into Japanese by tubo_kun, all rights reserved. 第一章 ブルーノのおけいこ それから一、二か月の間ときたら、ぼくの一人っきりの街暮らしは、一転し てひどく退屈な、鬱陶しいものになった。エルヴェストンに残してきた愉快な 友人のことを思うと、さびしかった。 おだやかな思考の交換 -- ひとの思索に、活き活きとした新鮮な現実感を与 えてくれる感覚の響きあいを、ぼくは懐かしんだ。けれど、それより何より、 ふたりの妖精とのともだちづきあいが恋い偲ばれた。 -- 夢の子どもたち、と 言ってもいい。かれらが何者であるのかという問題は、今なお解決していない のだから。 -- やさしくていたずら好きのかれらは、ぼくのいのちに不思議な 輝きをもたらしてくれたのだった。 仕事時間 -- それはたいていの人をコーヒー挽かしわ伸ばし機(*01)のよ うな精神状態にしてしまう -- の間は、時間はいつもより早く過ぎていった。 本や新聞も読み飽き、ひとり寂しいもの思いへと押し戻され、遠く離れた友 人たちの懐かしい顔を虚空に描いてみようと願いつつも -- すべてが無駄に終 わってしまう -- そんなわびしい時間。孤独の真の苦さが感じられるのは、人 生のこんな間隙においてなのだ。 ある晩、自分の生活を常よりも少しだけ退屈なものに感じつつ、ぼくはぶら ぶらといつものクラブへ向かっていた。そこでだれか友人に会おうという期待 は、これといってなかった。ロンドンは今や「市外」だった。が、少なくとも このクラブでなら、「人間の話す甘い言葉」を耳にし、人間の思考と接触を持 てる……そんな気がしていた。 果して、クラブでほとんど最初に目にしたのが、まさに友人の顔だった。エ リック・リンドンが、新聞のむこうで、ずいぶん退屈そうな顔をして、ぐった りと座っていたのだ。そこでぼくらは、互いの満足を隠そうともせずにしゃべ りはじめた。 ひとしきりしゃべったあとで、ぼくは、ちょうどその時頭の中にあった話題 を切りだしてみることにした。「それで、その医者は -- 」(これは「フォレ スター博士」というあらたまった言いかたと「アーサー」という親しい呼びか た -- エリック・リンドンにはそう呼ぶ資格はほとんどないように思えたが -- との間の便宜的な折衷案として、ぼくらが暗黙のうちに採用した名前だった) 「 -- いまは外国へ行っておられるはずと伺っていますが。かれの住所をお教 えいただけませんか?」(*02) 「かれはまだエルヴェストンにいる -- と思いますよ」というのが答えだっ た。「ただぼくは、まえにあなたと会ったとき以来、あそこへは行ってません がね」 この報せの、どの部分にまず驚くべきなのか、ぼくには判らなかった。「そ れでは -- あまり立ちいった質問で失礼でなければ伺いたいのですが -- あな たがた(*03)の結婚式の鐘は、いつ鳴らされるご予定なのか -- あるいはも しかすると、既に鳴ってしまったのでしょうか?」 「いいえ」感情をほとんど表さず、エリックはしずかに答えた。「あの婚約 は終わりになったのです。ぼくはいまだに〈未婚のベネディック〉(*04)で すよ」 ぼくの中に、ある思い -- アーサーにも新しい幸福の可能性があるのだ、と いう輝かしい希望 -- が強くこみあげてきて、うろたえてしまった。あまりの 当惑に、そのあとはもう、この会話をこれ以上深めることなどできなくなって しまった。うまく行儀にかなった言いわけをして沈黙へと退くというようなこ とができないほどに、ひたすら、うれしかったのだ。 翌日、ぼくはアーサーに手紙を書いた。かれが長い間なんの連絡もよこさな いことを、思いつく限りの言葉をつくして責め、どんな具合にやっているかを ぜひ知らせてくれ、と懇願した。 かれの返信は、三日か四日 -- あるいはもっと -- 経過したあとでなければ 受けとれない。日々がこれほどまでにのろのろと、退屈きわまる時間をひきずっ て進んでいくものだとは。 なんとか時間をやり過ごそうと、ある午後ぼくはケンジントン公園へ散歩に 出た。行きあたりばったりに小道をそぞろ歩いているうち、どういうわけか、 まったく知らない小道に迷ってしまっていた。それでも、ぼくのかつての不思 議な体験は、もうすっかり色あせてしまっていたようで、もういちど妖精のと もだちに会えるかもしれない、という思いは、ぼくの頭には全然浮かんでこな かった。が、そのとき、ちいさな生き物が道端に茂る草のなかを動いてゆくの に、ぐうぜん気がついたのだ。昆虫や蛙といったような、ぼくに思いつく類の 生物ではないようだった。注意ぶかくかがみこんで、両手で即席のカゴを作り、 そのちいさな彷徨者を閉じこめた。突然、驚きで心が動揺し、その発見にぼく は歓喜した。ぼくが捕獲したのは、ほかでもない、あのブルーノだったのだ! もっとも、ブルーノのほうは事態をごく冷静に受けとめていた。会話をしや すい距離にかれを置いてやると、まるでぼくらがこの前会ってから数分しか経っ ていないみたいな調子で、かれはしゃべりはじめた。 「妖精をつたまえたときの《決まり》をちってる?」と、かれは訊いた(*05)。 「妖精が自分がどこにいるところを教えたげてないときの」(この前会ったと きから、文法にたいするブルーノの理解はちっとも進歩していない。) 「いや、」ぼくは言った。「そんなことに《決まり》があるなんて知らなかっ たよ」 「ぼくの考えでは、きみはぼくを《食べちゃう》権利があるね」ちいさな子 は、勝ち誇ったような笑みをうかべて、ぼくの顔を見つめあげた。「……でも、 この考えには、そんなに自信がないの。妖精に一言もことわらないで食べちゃ わないほうがいいよね」 しかるべき問い合わせもせずにそんな取り消しのきかない行動をとるのは、 たしかに理にかなったこととは思えなかった。「きっと、始めにことわってか らにするよ」ぼくは言った。「それに、わざわざ食べちゃうほど、きみがおい しいものかどうか、ぼくはまだ知らないんだよ!」 「ぼくはすばらしくおいしく食べちゃわれれると思うんだよ」ブルーノは満 ち足りたような調子で解説をした。なんだか、そのことを誇りにしているみた いだった。 「で、ここで何してるんだい、ブルーノ?」 「それはぼくの名前じゃないよ!」ぼくのりこうなともだちは言った。「ぼ くの名前は〈んもうブルーノ!〉だって、ちらないの? ぼくがおけいこをす ると、シルヴィーはいつもそう呼ぶんだもん(*06)」 「それじゃ……ここで何をしているんだい、んもうブルーノ?」 「おけいこだよ、ちろん」自分がナンセンスを言っているのを知っていると き、いつも浮かんでくる のいたずらっぽい輝きが、かれの目にあった。 「ああ、きみのおけいこは、こんなふうにやるのかい。うまくおさらいでき るかな?」 「《ぼくの》おけいこは、いつだっておさらいえるよ」とブルーノは言った。 「おさらいするのがそれはもうおそろしくむつかしいのは、《シルヴィーの》 おけいこなの!」自分の頭のなかがおぞましくてたまらないといったふうに、 ブルーノは顔をしかめ、それからおでこを指ではじいた。「あんなのをわかれ るほど、ぼく考えられれないよ」絶望したように言った。「考えが二個いるん だよ、きっと!」 「でも、シルヴィーはどこへ行ったの?」 「ぼくがちりたいよ!」なさけない声でブルーノは言った。「むつかしいこ と説明するシルヴィーがいてなくて、ぼくにおけいこさせても、何の役にたつ のさ」 「シルヴィーをさがしてあげよう!」ぼくは申し出た。立ちあがって、いま まで日かげにしてくつろいでいた樹々のまわりをさがし回った。少しして、ま たもや何か奇妙なものが草むらの中で動いているのに気づいた。かがんでみる と、すぐ目の前にシルヴィーの無邪気な顔があった。ぼくを見ると、その顔は うれしい驚きに輝いたのである。よく知っているあの美しい声で、ぼくは話し かけられたのだが、それはもう文のおしまいであったらしく、彼女の言葉の始 めのほうは聞きもらしてしまった。 「 -- もうそろそろ終わったころだと思うんです。あの子のところへ戻って みます。いっしょにいらっしゃる? この木のちょうど反対側なんです」 ほくにとってはほんの数歩だが、シルヴィーには、それは長い距離だった。 彼女を見失わないよう、ぼくは注意深くゆっくりと歩かなくてはならなかった。 ブルーノの《おけいこ》は、すごく安直なものだった。つたの大きな葉に書 かれたらしいおけいこが、あて布のように地面に散乱していた。草のすりきれ たその場所には、青ざめた生徒がひとり、当然座っているべきであったが、そ の姿はどこにもない。ぼくらはしばらくの間あちこち探したけれど、かれは見 つからなかった。しかし、シルヴィーの敏感な目は、つたのつるにゆられてい るブルーノをとうとう見つけ、厳しい声が、大地へ、人生という仕事へと戻る ことをかれに命じたのであった。 「愉楽第一、仕事第二」が、こういうちいさな連中のモットーであるようで、 なんべんも抱きあい、キスを交わした後でなければ、他のことは何ひとつでき ない。 「いいことブルーノ」とシルヴィーはしかった。「もういいよって聞こえる までは、おけいこを続けてなさいって、言っておかなかった?」 「もういいよって《聞こえた》んだもん!」いたずらな目をしてブルーノは 主張した。 「何が聞こえたっていうの、悪い子ね」 「空中に何か音がしたんだよ」とブルーノ。「何かかき回すような音が。聞 こえなかった、ミスター・サー?(*07)」
「だからって、あんな上で眠っちゃうことはないでしょ。もう、のんきなん だから!」そんなふうに言ってのは、ブルーノが大きな《おけいこ》の上に丸 くなって、もう一枚をまくらにしようとしていたからである。 「眠っちゃったんじゃないよ!」深く傷ついたような調子でブルーノは言っ た。「ぼくが目を閉じるときには、目は〈ぼくは起きてるぞー〉って言ってる はずだよ」 「さてと、それで、どこまでお勉強したの?」 「ほんのちょっぴりね」ブルーノは謙虚に言った。自分の学力を実際以上に 見せることを恐れているのが明らかだった。「もうこれ以上なんて勉強できな いよ!」 「んもうブルーノ! やればできるのよ、わかってるでしょ」 「ちろん、やろうと思えばできるよ」青ざめた生徒が応えた。「でも、思わ ないのなら、できないんだ!」 ところで、あまり賞賛できるやりかたではないが、シルヴィーには、ブルー ノの論理的混乱を回避する方法があった。突然べつなことを考え始めるのであ る。この巧みな戦略を、いまも彼女は採用するのであった。 「ひとつ、言っておくことがあります」 「ねえミスター・サー、ちってた?」考え深そうにブルーノは解説をした。 「シルヴィーはね、計算ができないんだよ。〈ひとつ、言っておくことがあり ます〉っていうときは、いつだってふたつのことを言うんだ。ぼくはよくちっ てるんだ。いつだってそうなんだ」 「一人ぶんより二人の頭、っていうよ、ブルーノ(*08)」とぼくは言った が、何を言わんとしているのか、われながら理解しかねた。 「頭が二人になっても、気にしないことにしよう」ブルーノはそっとひとり ごとを言った。「ひとつがごはんを食べて、もうひとつがシルヴィーと話をす ればいいや -- ねえ、ミスター・サー、頭がふたつあったら、ひとつのときよ りかわいく見えると思う?」 まちがいなくそうだろう、と、ぼくはうけあった。 「そかあ。それでシルヴィーは機嫌がわるいんだ -- 」ブルーノは深刻に、 ほとんど悲嘆にくれて続けた。 この新式な論評にびっくりして、シルヴィーの目は、大きく、まんまるになっ た。 -- すてきなユーモアに、彼女のばらのような顔がぱっと輝いた。しかし 彼女は何も言わなかった。 「おけいこが終わったら、勉強したことをぼくにおさらいして見せるという のはどうだろう」と、ぼくは提案した。 「それはいいね」ブルーノはあきらめ顔で言った。「そのときシルヴィーの 機嫌がわるくなかったらね」 「おけいこは三つだけなの」とシルヴィー。「書きかたと地理とお歌の」 「《算数》はないの?」 「ええ、ブルーノには算数の頭がまるでないの -- 」 「そんなのあるわけないよ!」とブルーノが言う。「ぼくの頭は髪の毛のた めにあるんだもん。そんなにいくつも頭を持っていられないもん!」 「 -- ブルーノったら、かけ算の表も覚えられないの -- 」 「ぼくの一番好きなのは《歴史》だよ」とブルーノは注釈をした。「コケ算 の表をおさらいしてみてよ(*09)」 「あなたも繰り返すのよ」 「その必要はないもんね」ブルーノはさえぎった。「歴史はそれ自体を繰り 返すんだから。教授が言ってたもん!」 シルヴィーは板の上に『わ・る・い』 -- と文字を書いた。「さあブルーノ、 これの意味は?」 ブルーノはそれを見た。ほんのしばらく、荘厳なる沈黙があった。「それの 不意味ならわかるよ」と、ついにかれは言った。 「だめ。どう読むの?」 ブルーノは、その謎めいた文字をもういちど見た。「あっ、『いるわ』だ、 さかさまに読めば(*10)」そう叫んだ。(たしかにその通りだ、とぼくは思っ た。) 「いったいどうしてそんなふうに見えるわけ?」 「目をね、でんぐり返したの。それからまっすぐに見たんだ。ねえ、カワセ ミ王の歌、歌っていい?」 「次は地理でしょ。決まりを知らないの?」 「あのねえシルヴィー。そんなにたくさんの決まりがあるべきじゃないと思 うよ! ぼくが思うに -- 」 「いいえ、決まりはこんなふうにたくさんあるべきだわ、いたずらぼうず! だいいち、何を《思う》ことがあるのよ。すぐにその口を閉じなさい!」 「その口」がじぶんから進んで閉じる見込みはないから、シルヴィーはブルー ノのために、それを閉じてやった -- 両手を使って。 -- そのあと手紙に封を するみたいに、キスで押さえてあげた。 「というわけで、ブルーノのおしゃべりも封印されたことだし」と、彼女は ぼくのほうを向いた。「ブルーノのおけいこに使う地図をお見せします」 大きな世界地図が、地面に広げられていた。あまりに大きいので、ブルーノ は地図じゅうを這い回って、この「カワセミ王のおけいこ」に出てくるいろい ろの地名(*11)を指し示さねばならなかった。 「てんとう虫姫が飛んでいってしまうのを見て、カワセミ王は言いました。 『おねがいだかーる、まってくださいたま』。それから姫をつかまえて、王は 言いました。『おらのところにきてへらん。おなかがすいすたら、食事にしよ うすこう』。王は姫をつめにひっかけて『おらんだ!』、お口に入れて『みゃ んまー!』、飲みこんで『ああ、食べちゃっ、たい!』って言いました。おし まい」(*12) 「なかなか上出来ね」とシルヴィーが言った。「それじゃ、カワセミの歌、 歌っていいわよ」 「コーラスやってね」と、ブルーノはぼくに言った。 「でも歌詞を知らないし」とぼくは言いかけたが、そのときシルヴィーが無 言で地図をひっくりかえした。地図の裏には、歌詞が全部書いてあったのだ。 ある点で、それは非常に独特な歌だった。コーラスが、歌の最後ではなく途中 に出てくるのだ。でも曲はたいへん簡単だったから、すぐに聴き覚えて、一人 の人間にできる程度にだが、おそらくコーラスもこなせるようになった。手伝っ てくれるようにとシルヴィーに合図をしたが、無駄だった。彼女はやさしく笑っ てかぶりをふるだけだった(*13)。 カワセミ王がァ〜 てんと虫姫にプロポーズ (コーラス)そりゃマメ ありゃカメ こりゃヒッコメ! カワセミ陛下の 言うことにゃ、 朕よりいい男は いまい カッコイイ頭 白いヒゲ 百万ボルトの この瞳っ! てんと虫姫がァ〜 陛下をふって言うことにゃ (コーラス)そりゃモモ ありゃ野茂 こりゃなんとも! アタマがあるのは アタりまえ 細ォ〜いピンにも あるものヨ グサッと刺せば ピタッととまる おりこうさんの アタマがネッ! てんと虫姫はァ〜 陛下にズケズケもの申す (コーラス)そりゃハエ ありゃヌエ こりゃセンセエ! 牡蛎にもおヒゲは ありますヨ しずかな 無口な おヒゲがネ おだてりゃ すぐに ペチャクチャと しゃべくらないのが いいのよネッ! てんと虫姫はァ〜 これでけっこう毒舌家 (コーラス)そりゃネコ ありゃデコ こりゃベッカンコ! 針にもするどい 目があるワ 陛下の目なんか メじゃないワ もう帰ってよ おことわり 陛下のことなんか だいっキラ〜イ!
「それで王は行っちゃったんだよ」歌が終わってから、ブルーノは追伸めい た補足をした。「いつもみたくね(*14)」 「ああんもうブルーノってば!」両手で耳をふさぎながら、シルヴィーが叫 んだ。「『〜みたく』じゃないでしょ。『〜のように』って言うべきよ」 これにはブルーノは頑固に言い返した。「『ように』はシルヴィーの声がち いさくって聞こえにくいときにちゃんと聞こえる『ように』しゃべってよって いうときにだけ使うんだもん(*15)」 「それで王はどこへ行っちゃったのかな?」言いあいをやめさせるために、 ぼくはそう訊いた。 「まだ行ったことがないよりももっと遠いとこだよ」 「『行ったことがないよりももっと』なんて言うべきじゃないわ」とシルヴィー は訂正してやった。「『行ったことがないほどの』って言わなくちゃ」 「それじゃ、ごはんのときに『スープをもっと』って言うのもだめだよ」ブ ルーノが口ごたえをした。「『スープをほどの』って言うべきだ!(*16)」 今度はシルヴィーは議論を避けて、ぷいと向こうを向いてしまった。それか ら地図をかたづけ始めた。「おけいこ、終わり!」もっともやさしい声で、彼 女はそう宣言したのであった。 「きょうのおけいこについて反省はないかな?」とぼくは訊ねた。「ちいさ な男の子たちは、いつもおけいこの泣き言を言ってるものだろ?」 「十二時をすぎたら、泣かないんだ」とブルーノ。「ごはんの時間が近いか らね」 「ときたま、朝にね、」シルヴィーは低い声で言った。「地理の日で、言う ことを聞かない時に -- 」 「どうして言うんだよ、シルヴィー!」ブルーノがあわてて割りこんできた。 「世界はシルヴィーのおしゃべりのためにあるとでも思ってるの?」 「それじゃ、どこでなら私にしゃべらせてくれるっていうのよ!」明らかに シルヴィーは議論の体勢にあった。 が、ブルーノはきっぱりと言った。「そのことで言いあうつもりはないんだ。 だって、もう遅いし、時間ないだろ。それなのに -- お姉ちゃんのおしゃべり ときたら、いつまでもいつまでも!」かれは手の甲で両目をぬぐった。涙が流 れはじめていたのだ。 シルヴィーの目にも、すぐに涙があふれてきた。「そんなつもりじゃなかっ たのよ、ブルーノちゃん!」彼女はささやくようにそう言った。この議論の続 きは「ニエラの髪のもつれとともに(*17)」失われ、代わりにふたりの論客 は、抱きあい、キスを交わしあったのだった。 しかし、この新しい論争形態は、ひとすじの閃光とともに突然の終わりを告 げたのだ。その直後には雷鳴が響き、それから奔流のような雨が、まるで生き 物みたいに、ぼくらの雨やどりしている木の葉かげを通って、罵るようにしゅ うしゅうと降ってきた。「これはまた、ドシャ降りだ!」ぼくは言った。 「ドは全部、先に降っちゃったんだよね」とブルーノは言った。「いま降っ てるのはシャだけだよね(*18)」 しばらくして、降りだしたときと同じくらい突然、雨足が止んだ。木かげか ら出てみると、あらしはもうおさまっていた。だが、木の下へ戻ると、もうぼ くのちいさなともだちの姿を見つけることはできなかった。ふたりはあらしと ともに消え去ってしまったのだ。せいぜいぼくにできるのは、家に戻ることだ けだった。 ぼくの帰りを待っていたかのように、テーブルの上に封筒が載っていた。封 筒の独特な黄色みは、それが電報であることを伝えていた。電報といえば、我 々の多くには、何らかの激しい突然の悲しみと不可分に結びついた記憶がある ものだ -- この世界にある限り決して取りのけることのできない、生命の光に 影を投げかける悲しみの記憶が。そうに違いない。電報は -- 我々の大部分の 者にとっては -- 何か突然の喜びを告知することもあるけれど、そういうこと は普通はあまりないものだと思う。人生というものは、全体としては、喜びよ りも悲しみのほうを多く含むもののようだ。それでもこの世界は継続してゆく のだ。だれがその理由を知るというのか? しかし今度は、悲嘆に直面するということはなかった。実は、電報にはほん の数語が記してあるだけだったのだ。(『手紙ヲ書ク気ニナレズ。スグ来ラレ タシ。イツデモ歓迎。アトデ手紙ガ行クハズ」アーサー』)その文面はアーサー がしゃべる口調そっくりだったので、ぼくはうれしさにわくわくした。そして 直ちに旅行の準備を始めたのである。 (第一章おわり)◆ 【訳註】 *01 じぶんが「伸びて」しまうということは、「時間」のほうが相対的に 短く(速く)感じられることだ、という理屈です。ここに出た「しわ 伸ばし機」( mangle )という言葉は、正篇(『シルヴィーとブルーノ』) 第一六章に出てきた「ものを引き伸ばす機械」を想起させています。 ワニでも歌でも長く引きのばすことができるという、教授の発明品で、 古い洗濯機の脱水スリットのように、中のものを「しめつけて」伸ば す仕組みのようです。また、同じつづりの「ぼろぼろに切り裂く」と いう語をも連想させます。(ただし語源は別。) *02 正篇の後半で、失恋の痛手から生きる希望を失った若い医師アーサー が、インドへと旅立つ決心をしたことを指します。 *03 快活な青年将校エリック・リンドンとその従妹ミュリエル・オーム嬢 をさします。アーサーは、ミュリエル嬢に想いをよせていたのですが、 彼女と親しい美男子エリックが出現して以来、すっかり落胆してしまっ たのです。くわしくは正篇第一八章以降参照。 *04 シェイクスピアの喜劇『から騒ぎ』に出てくるアラゴン(現在のスペ イン北部)の貴族。ビアトリスという女性との意地の張りあいの末、 ついに結婚します。ここから転じて、独身時代の長かった新婚男性の ことをベネディックと呼ぶことがあります。 *05 幼いブルーノの言葉は、ときどきちょっぴり変ですが、誤植ではない からね。 *06 正篇第一六章では「ほんとにブルーノ」という言葉にこだわっていま した。「おーい中村くん」と呼ばれて「大井中村くん」が振り返るよ うなものですね。……そんな人いないいない。 *07 ブルーノは主人公の「ぼく」をこう呼びます。「男の人のこと話すと きは『ミスター』をつけて、男の人に話しかけるときは『サー』をつ ける」とシルヴィーに教わったブルーノは、紳士のことを紳士に話し かけるのだから両方使うんだ、と言いはります。 *08 「三人寄れば文殊の知恵」にあたることわざを、例によってリテラリ スティックに解してみせています。 *09 歴史の虚しいずっコケ騒ぎ( Muddlecome )を「カケ算」( Multiplication ) にカケているざんす。 *10 「EVIL」(悪い、よこしまな)を逆に読んで「LIVE」(生き る、住む)。ブルーノは、わざとそう読んだのだと思います。そうい えば、「悪い子いるわ」という穏やかでない回文がありましたね。 *11 原文のだじゃれの解説は省きます。訳では、原文執筆当時に存在しな かった地名が出てきますが、この手の邦訳にとって致命的というわけ でもないと思うので、えーい、このまま出しちめい。 *12 カワセミは、英語で kingfisher という名前だから、王なのです。ま た、てんと虫は ladybird だから、女の人なのです。「てるてる坊主」 が僧侶になるようなものでしょうか。(ちょっとかなり違うか。) *13 この詩には、すでに高橋康也訳(『ルイス・キャロル詩集』筑摩書房、 一九七七)があり、もちろんそちらのほうがはるかにエレガントです。 なんとバスコダガマまで出てくる超独創的な押韻や、結末の「お帰り あそばせ アホらしい/わたしに求婚? アッカンベー!」という箇 所など絶品ですので、興味のおありのかたは、ぜひ併読を。 *14 ブルーノには、歌のなかの出来事を、まるでほんとうにあったことの ように補足説明するくせがあります。ブルーノの歌やお話には、正し い箇所で正しい質問や返事をしてあげるべきなのです。 *15 just like のあとに名詞句ではなく節を続けてしまうのは「文法的」 ではないから叱られました。本来は、just what というべきなのです。 なお what は人にものを聞きかえすときの言いかたでもあります。 *16 不規則活用する形容詞 far (遠い)の比較級を more far とやって 叱られました。正しくは farther というべきです。ブルーノによれ ば、それなら「more broth」(スープのおかわり)だって「brother」 というべきだとのこと。うーむ……どう訳せばいいんでしょう。 *17 ミルトンの牧歌調悲歌『リシダス』の改変・引用。原詩は、知人の海 難事故に寄せた弔いの詩なのに「牧歌」的で妖しい香りが感じられる ため、物議をかもしたそうです。ニエラはギリシア神話のニンフ。そ の魅力に旅人たちは耽溺したのです。 *18 ご存じのように「ドシャ降り」は「It rains cats and dogs. 」など と言いますが、ブルーノはこれを、文字通り犬(ド)と猫(シャ)が 降ってくるかのように解釈してみせています。「ぼく」のひとりごと を聞いたブルーノが唐突にリアクションしたのは、正篇第一三章に出 てきた犬の国(ドッグランド)を思い出したからでしょう。ブルーノ が犬をこわがるということを「ぼく」は知っています。正篇第一六章 で、すでに語られているからです。 Lewis Carroll (1832-1898): Sylvie and Bruno Concluded (1893) ------------------------------------------------------------ Chapter I / Bruno's Lessons Japanese text copyright(c) by tubo_kun, 1994.