![]() |
Lewis Carroll(1832-1898) : Sylvie and Bruno Concluded (1893) Translated into Japanese by tubo_kun, all rights reserved. 序 よくも悪しくも前巻(*01) に注目してくださった、たくさんの書評家の方々 に対し、ここに心からの謝意を表したい。好意的でないご指摘のほうは、好意 的なものにも増して傾聴に値するものであったかもしれない。いずれにせよ、 書評があの本を知らしめてくれたことは確かであり、世の読者が読後感を形成 するのを助けてくれたのだ。ここで、諸氏に確言しておきたいことがもうひと つある。わたしは、諸氏の批評のどれひとつとして、目を通すことを慎重に控 えてきた。それは、批評に払うべき敬意をわたしが欠いていたからでは決して ない。作家は、自作について批評したものなど、すべからく読まぬほうがはる かによい -- という意見を、わたしは強く持つものなのである。批判的な評は たいがい作家を不機嫌にするものだし、好意的なものは、うぬぼれを抱かせる。 どちらの結果も望ましくない。 とはいえ、私的な筋から批評はわたしの耳にも届いてきた。そのいくつかに 対して応えたいと思う。 まず、教会の説教や少年聖歌隊(*02) のことを作者が悪しざまに言いすぎて いる -- という批判がある。これに対して申し上げたいのは、わたしの本の登 場人物が述べるいちいちの意見の責任を、わたし自身が負うわけではないとい うことだ。作中のそうした意見は、たしかにわたしが登場人物の口にふきこん だものではあるが、それはその登場人物が持った意見にすぎないはずである。 ただし、考慮する価値のある意見であるとわたしは考えるのだが。 また別の批判として、 "ca'n't" や "wo'n't" "traveler"(*03) 等々、わた しが然るべしとする綴り字改革案に異議を申し立てるものがあった。これに関 しては、現行一般の綴りのほうが間違っているのだ、とわたしが確信する理由 を弁ずるほかはないだろう。まず "ca'n't" についてだが、議論の余地なく次 のことが言える。すなわち、"ca'n't" 以外の単語で "n't" で終わるものにお いては、その部分はすべて "not" の縮まったものだ。ならば、あの "can't" というただひとつの場合についてだけ、"'t" でもって "not" を表そうなどと 考えるのは、じつに馬鹿げたことではないか! 本来 "can't" は、正しくは "can it" の縮約形なのである。つまり "is it" に対する "is't" と同様だ。 また "wo'n't" においても、最初のアポストロフィは必要である。なぜなら、 "would"という語がここでは縮められて "wo"になっているのだから。ただし、 "don't" にアポストロフィをひとつしかつけないのは、正しいと見なす。"do" という単語は、ここでは縮まっていないからである。次に "traveler" のごと き単語についてだが、綴り字の正しい原則を、わたしは次のように理解してい る。-- その音節(*04)にアクセントがある場合、子音を重ねるべし。そうでな い場合は、ひとつに留める。 -- たいていの場合に、この規則が有効である。 (たとえば "prefErred"(*05)では rを重ねるが、"Offered"では重ねない。) このように、わたしは既存の規則を別の場面に拡張しているにすぎないのだ。 ただし、"parallel"の場合は規則通りにいかないことを認める。この場合は、 語源により、l を重ねることを強いられる(*06)からである。 第一巻の序文に、パズルをふたつ出題しておいた。読者のみなさんは自らの 才能を試されたことと思う。45ページの終わりから48ページの冒頭(54ページ から57ページ)(*07) に至る一節に書きこむ必要のあった三行の「埋め草」を 発見せよ -- これが第一問であった。答えは 47ページの 11、12、13行目(56 ページの10、11、12行目)である。もうひとつの問題は、庭師の八連の詩 -- 67、77、80、86、96、103、141、144ページ(76、88、92、99、110、118、159、 163ページ) -- のうち、どれが(仮にそういう箇所があれば)本文の文脈に あわせて書いたもので、どれが(もしあれば)本文のほうを詩にあわせて書い たものか -- それをあてよ、というものであった。これらの詩のうち、最後の ひとつだけが文脈にあわせて書かれたものなのである。「お庭の扉、鍵で開い たとこだった」という箇所は、なにか生き物が(「よくばり鵜」がいいだろう) 「こずえの古巣に座ってた」とあるべきところを、そういう文句で代用したの である(*08)。77、96、141ページ(88、110、159ページ)では、本文の文脈の ほうを詩にあわせてある。86(99)ページでは、詩が先か本文なのか、どちら ともいえない。両者の結びつきは、たんなる幸運の産物であった。 第一巻序文の 5、6、7ページ(13、14、15ページ)で、わたしは『シルヴィー とブルーノ』の成立経緯についてふれておいた。ここでは読者のみなさんに、 もう少し詳しく知っていただくことにしよう。 1867年、「ジュディおばさんの雑誌」に『ブルーノの復讐』と題して書いた ちいさな妖精物語があったのだが、これをもっと長い話の核にすることができ るかもしれない、と、そう最初に思いついたのが、(いま思えば)1873年のこ とであった。この第二巻の草稿の最後に1873年と記してあることから、そう推 測できる。ならば、この文章は20年もの間、印刷に付され世に出るのを待ちつ づけていたことになる。 -- その間、二度三度となく、ホラーティウスがわた しを慎重に出直させ、わが労作を慎み深くしまっておかせたのだった。(*09) ハリー・ファーニス氏と本の挿絵の交渉に入ったのは、1885 年 2 月のこと だった。当時、正続両巻のほとんどの内容は草稿の形で存在していた。わたし 自身としては、全体をいちどに刊行するつもりであった。1885年 9月、ファー ニス氏から最初の一組の絵を受けとった -- 「ピーターとポール」(*10) を描 いた四枚だった。1886年11月、二組目をいただいた -- 「ちいさな銃」をもっ た「ちいさな男」についての教授の歌(*11)を描いた三枚だ。そして1887年1月、 三組目 -- 「豚の尾話」(*12)の絵四枚を、受けとった。 そういうわけでわれわれは、物語のひとかけらを絵にし、それから別のひと かけらを -- といった調子で、話のつづき具合をまったく考えずに仕事をすす めていった。(*13) ところで、この物語が割くことになるページ数を勘定しているうちに、わた しはこれを二部に分かち、まず前半を上梓することに決めた。1889年 3月にな る前のことである。このため、第一巻のおわりに何らかの結末をつける必要が 出てきた。わたしが想像するに、1889年12月に第一巻が出たとき、ほとんどの 読者諸氏は、これをほんとうの結末だと思ってしまったようだ。いずれにせよ、 あの本に関してわたしが受けとったすべての手紙のうちで、あれが《最後の結 末》でないことに感づいているふしが少しでも表れていたものは、たった一通 だった。それはある女の子からの手紙で、次のように書いてある。「ご本をお しまいまで読みましたが、お話がちっとも終わってないので、安心しました。 だって、終わってないということは、続きを書いてくださるということですも の」 この物語を構成している理論を知ることは、読者諸氏の幾足かにとっては興 味のあるところだろう。妖精がほんとうに存在するとしたら -- そして時には わたしたちの目にかれらが見え、かれらもわたしたちのことを見ることができ たら -- さらには、妖精たちが時として人間の姿をよそおうことができるとし たら -- また、「密教」で経験するごとく人間の非物質的な精髄(エッセンス) を実際に転移してしまうことによって、妖精の世界で起きていることを人間が 知りえたとすれば -- そのとき、どんなことが起きるだろうか。それを示すの が、ひとつの試みなのである。 人類はさまざまの肉体的状態になることが可能である -- と、わたしは仮定 することにした。それに伴い、意識の段階も次のように遷移していく。 (a) 通常の状態。妖精の存在を意識しない。 (b) 「妖氛(ようふん)」(*14) 状態。現実世界の周囲のようすを意識しな がら、妖精の存在をも意識している。 (c) 一種のトランス状態。現実の周囲の状況は意識しておらず、一見したと ころ眠っている。人間(の非物質的精髄)は、現実世界またはフェアリー ランドの、ほかの場面に転移する。妖精の存在が自覚される。 いっぽう、妖精のほうもまたフェアリーランドから現実世界に移ってくるこ とが可能である、ともわたしは仮定した。かれらは、好きなときに人間の姿を よそおうことができ、その精神的状態はつぎのように変わりうる。 (a) 通常の状態。人類の存在を意識しない。 (b) ある種の「妖氛」状態。現実世界にいるときは現実の人類の存在を意識 し、フェアリーランドでは、人間の非物質的精髄の存在を意識する。 正続両巻中、通常でない状態が生じる箇所を、ここに表にしてみよう。 +--+---------+---------+----------------+---+----------------------+ | | 邦訳の | 文庫版 | 語り手の位置と |他の登場人物とその状態| | | ページ | ページ | 語り手の状態 | (数字は邦訳のページ) | +--+---------+---------+----------------+---+----------------------+ | | 23- 34 | 27- 41 | 汽車の中で |(c)| 長官(b) 24(28)| | | 42- 59 | 50- 68 | 同上 |(c)| | | | 67- 78 | 76- 89 | 同上 |(c)| | | | 80- 91 | 92-105 | 宿で |(c)| | |第| 96-104 | 110-119 | 浜辺で |(c)| | | | 104-154 | 119-174 | 宿で |(c)| シルウィーと 136-141 | | | | | | | ブルーノ(b) (155-159)| | | | | | | 教授(b) 145(164)| | | 159-181 | 181-206 | 森で |(b)| ブルーノ(b) 163-181 | | | | | | | (185-206)| |一| 184-190 | 209-216 | 森で、夢遊状態 |(c)| シルウィーとブルーノ(b) | | | 201-205 | 229-233 | 廃墟で |(c)| 同上(b) | | | 212 | 240 | 同上、夢をみる |(a)| | | | 212-216 | 241-246 | 同上、夢遊状態 |(c)| シルウィー,ブルーノ,教授 | | | | | | | 人間の姿で。| | | 216-217 | 246 | 通りで |(b)| | |巻| 223-235 | 253-267 | 駅で、その他 |(b)| シルウィーとブルーノ(b) | | | 240-255 | 273-290 | 庭で |(c)| シルウィー,ブルーノ,教授(b) | | | 259-269 | 294-306 | 道で |(a)| シルウィーとブルーノ | | | | | | | 人間の姿で。| | | 270-279 | 307-317 | 通りで、その他 |(a)| | | | 280-295 | 318-335 | 森で |(b)| シルウィーとブルーノ(b) | +--+---------+---------+----------------+---+----------------------+ | | | 庭で |(b)| シルウィーとブルーノ(b) | | | | 道で |(b)| 同上(b) | |第| | 同上 |(b)| 同上,人間の姿で。 | | | | 同上 |(b)| 同上(b) | | | | 客間で |(a)| 同上,人間の姿で。 | |二| (*15) | 同上 |(c)| 同上(b) | | | | 喫煙室で |(c)| 同上(b) | | | | 森で |(b)| 同上(a),ミュリエル嬢(b) | |巻| | 宿で |(c)| | | | | 同上 |(c)| | | | | 同上 |(b)| | +--+---------+---------+----------------+---+----------------------+ 第一巻の序文、5、6ページ(13、14ページ)でわたしは、あの本に出てくる アイディアのいくつかには起源があると言った。もう少し詳しく書けば、読者 にも興味をもっていただけると思う。 第一巻168(190)ページ。ここに出てくる、死んだ鼠のことのほか変わった 使いみちは、実生活から来ている。以前わたしは、ふたりの幼い男の子が庭で 「ミニミニクリケットごっこ」(*16) をしているのを見たことがある。バット は、おそらく大さじスプーンくらいの大きさだった。ボールは、最大限に飛ん だとしてもせいぜい四、五ヤードといったところ。当然、なによりもまず距離 を正確にしなければならず、(打者と投手が労苦を分かちあって)いつも慎重 に長さを計測するわけである。そのために使っていたのが、死んだ鼠! 第一巻208(237)ページ。アーサーが引用した擬似数学上の公理(「同一の ものより大きいものはたがいに大きいよりも大きい」と「すべての角度は等し い」)は、イーリーから 100マイルも離れていない某大学の学生たちが、大真 面目で実際に発表したものである(*17)。 第二巻(第一章)(*18)。 ブルーノの台詞「やろうと思うのならできるよ、 でも云々」は、ある男の子が実際に言った言葉。 第二巻(第一章)「その言葉の不意味ならわかるもん」。これも、上と同じ 男の子の発言。「目をね、でんぐり返したの」云々は、ある小さな女の子のく ちびるから出てきた。その子は、わたしの出題したパズルを解くや、この言葉 を使ったのだった。 第二巻(第四章)ブルーノのひとりごと「おとうさんは馬で」云々は、鉄道 車両の窓から外をながめていた女の子が実際に言った。 第二巻(第九章)で夕食会の客が果物の皿をとってほしいのを「それをいた だきたいと思っていた云々」と言うが、これは偉大なる桂冠詩人が言ったのを 耳にしたのである。かれの失言を全読書界が嘆き悲しむ羽目になった。(*19) 第二巻(第一一章)「モシ殿方」の年齢についてのブルーノのせりふには、 「おばあさまはお歳を召していらっしゃるの?」と訊かれた女の子の応答を使 わせてもらった。「お歳多めなのかどうか、わかんない」(*20) と、注意深い この子は言った。「八三歳なの」 第二巻(第一三章)「議事妨害」をめぐっての言及は、たんなる想像の所産 では決してない! ここは「スタンダード」誌から一語たがわず書き出したも ので、1890年16日に開かれた「国民自由クラブ」の席上、「反対者側」のメン バーだったウィリアム・ハーコート卿の発言である。 第二巻(第二一章)教授が犬のしっぽについて「犬の尾ある部分は、噛みつ いてこない」と言うが、これは実際には、犬のしっぽをひっぱっていて「あぶ ないよ」と注意されたぼうやが言った。 第二巻(第二三章)シルヴィーとブルーノのやりとりは、ふたりの子どもが 言いあっているのを耳にして、そのまま借りたものだ。(ただし、「お金」を 「ケーキ」におきかえた。) この巻の「ブルーノのピクニック」(第一四章)は、子どもに聴かせてあげ るのにうってつけである。幾度となく実証済み。聴衆は村の学校の女の子十数 名であったり、ロンドンのさる客間に集った三、四〇人からの方々であったり、 あるいはハイ・スクールの一〇〇人であったりしたが、いつも真剣に聴いてく れたし、語られる物語を熱心に誉めてくれた。 この機会に、第一巻50(59)ページに出てくる人名のことにも注意を促した い。うまい名前をつけたものだと、わたしはひそかに信じている。「シビメッ ト」(*21) という名前には、副総督の性格がじつによく表れているではないか。 育ちのよい読者諸氏はおそらくご覧になったことがおありだろうが、真鍮のト ランペットが、もし家に置いてあるだけで一度も吹かれないとしたら、それは なんと無益な品物にすぎないことか! 第一巻を読まれたかたのうち、序文 7(15)ページに出題したパズル二題を 解いて楽しまれた向きには、こんな力試しも喜んでいただけるかもしれない。 つぎに挙げる似たものの組のうち、どれが(もしあれば)意図的なもので、ま たどれが(もしあれば)偶然のものであっただろう? 『小鳥たち』(*22) できごと・人物 一連 晩餐会。 二連 長官。 三連 皇后とホウレンソウ。 (第二巻第二〇章) 四連 総督の帰還。 五連 教授の講義。 (第二巻第二一章) 六連 別乃教授の歌。(第一巻117(133)ページ) 七連 アグガギの猫っかわいがられ。 八連 二心男爵。 九連 道化師と熊。 (第一巻106(122)ページ) 子狐たち。 一〇連 ブルーノの食事のベル。子狐たち。 この問題の答えは、『独創・ゲームとパズル』(*23) というちいさな本の序 文で明らかにしよう。この本は、いま出版を準備中である。 最後に、より真面目な話題をふたつ残しておいた。 この序文でわたしは、前巻で論じたよりもさらにたっぷりと「狩猟(スポー ツ)の道徳性」について議論するつもりでいた -- とくに狩猟愛好家の方々か らいただいたお手紙を引き合いに出した上でだ。それらの手紙は、人が狩猟に よって得る多大な利点を指摘し、それに比べたら狩猟が動物に与える被害など 取るに足らないささいなことに過ぎない、ということを証明しようと試みてい る。 ただ、この問題をきちんと考察し、議論の全体を賛否に整理するとなると、 問題が大きすぎてここでは扱いきれなくなる。この問題に関しては、いずれ小 論を公にしたいと考えている。ここでは、わたしが到達した結論そのものを述 べることでよしとしたい。 その結論というのはこうだ。神は人間に、他の動物のいのちを取る絶対的な 権利を与えてくださっているが -- ただしそれは、食物をまかなうため等、な んらかの正当な理由のもとでの話なのだ。必要もないのに動物に苦痛を与える 権利など、神はお与えになっていない。たんなる道楽とか利益とかは、いま言っ た必要性にあたらない。だから結局、「なぐさみ(スポーツ)」なる目的のも とに加えられる苦痛は、すなわち残虐であり、ゆえに間違っている。ただし、 この問題はわたしが考えていたよりはるかに複雑なもので、狩猟家の側の「言 いぶん」はわたしの想像よりも堅固であることに気づいた。だから今は、これ 以上のことは言わずにおこう。(*24) 「教会の説教」と「少年聖歌隊」に関して220(249-250)ページで、わたし がアーサーの口にふきこんだ苦言に対しても、反論が寄せられた。 さきほど言ったように、わたしの物語に出てくる登場人物の意見について、 責任を負う覚悟がわたしにあると思いこまれてしまうことには異議がある。し かし、件の二箇所については、わたし自身「アーサー」にはなはだ同感である ことを認めよう。われらの説教者は、あまりにも多くを語り、それが当然だと 思われている。その結果、ものすごい量の説教がなされ、しかもそれらは聴く に値しない。このことが災いして、われわれは説教にあまり耳を貸さなくなっ てしまっている。これを読まれている読者のかたも、今週の日曜日の朝、説教 をお聴きになったことと思うが、そのときどんな聖句が引用され、説教者がど んなふうにそれを扱ったのか、できるものなら思い出してみられては? それから、「少年聖歌隊」やその他の粉飾物 -- 音楽、礼拝、行列など -- 一連の流行について。「祭式」運動は絶対に必要だったことは認める。つまり 死と渇きに瀕していたわれらの教会礼拝に、あの運動が多大な進歩をもたらし たことは、わたしも認めよう(*25)。 けれども、望ましい運動がしばしば陥っ てしまうように、あの運動も度がすぎてしまって逆効果になっているのではな いかと思う。それが新しい危険を招いてしまっていると思うのだ。 この新しい運動の持つ危険とは、まず教会にとっては、礼拝がああいう粉飾 物のために行われているのだと錯覚してしまうようになることであり、形とし て現にそこにあるものが、貢献を要するすべてであると思うようになってしま うことである。同じように聖職者にとっての危険もある。あの凝った礼拝が、 それ自体、目的と見なされてしまう危険だ。礼拝は手段にすぎないのだから、 それがわれらのいのちに実を結ばないとしたら、それはあまりに虚しいお笑い 草にすぎないのだ -- そういうことが忘れられてしまう危険がある。 「少年聖歌隊」については、前巻 220(249) ページに書いたように、虚栄 心という危険があると思われる。(原註:(原書初版に) "stagy-entrances" とあるのは "stage-entrances"の誤植である。)礼拝のなかで、聖歌隊の助け を必要とない箇所が、身を入れる価値のないところだと思われてしまう危険。 いちおうの姿勢をとり、文句を唱え、歌っていたとしても、頭のなかはうわの 空 -- そんなふうに礼拝をたんなる外見上の形式と見なすようになっていく危 険。また「慣れ」のために、聖なるものを軽んじるようになる危険もあろう。 わたし自身の体験から、いま述べた最後のふたつの危険のことを語ろう。最 近わたしは、ある大教会の礼拝に出た。合唱隊の人たちのすぐ後ろの席だった。 気づかずにいられなかったのは、かれらが説教を、礼拝のうち注意を向ける必 要のない箇所として扱い、どうやら歌唱書を整理するやら何やらにうってつけ の時間だとでも思っているのだということだ。また、幼い聖歌隊が一列になっ て行進し、自分の場所にくると、まさに祈らんとするかのごとくにひざまずき、 ちょっとひざのあたりをながめたあと立ち上がる -- というのもよく目にした。 あんなのは、たんに態度がふざけているのをさらけ出しているだけだ。子ども たちがあんなふうに「祈るふり」をやり慣れるのは、非常に危険なことではな いか? 次に、聖なるものへの不敬な扱いの一例として、ある慣習のことを挙 げよう。聖職者と合唱隊が列をなして入場するというやりかたをしている教会 で、多くの読者が気づかれることだと思う。控室で行われる私的な祈りは、も ちろん会衆には聞こえないものなのだが、祈りのおわりになると教会じゅうに 聞こえわたるような大声で、最後の「アーメン」が叫ばれるのだ。この叫びは、 「行列が入ってくるから立ち上がる準備をせよ」と会衆に知らせる役目をして いる。あの言葉があんなふうにわめかれる目的がこれだ。議論の余地はない。 「アーメン」が本来は誰に向けられるものかを思い起こした上で、ここではそ れが教会堂の鐘と同じような用途に使われていることを考えると、これはひど い不敬であると認めざるを得ないのではないか? わたしに言わせれば、まる で聖書が足置き台にでも使われるのを目撃してしまったかのようなものだ。 この新しい運動がまねく、聖職者自身にとっての危険についても例を挙げよ う。それは、わたしの経験からいうと特にこの派の聖職者は面白おかしい逸話 の受け売りをするくせがある、という事実である。どれほど神聖な名や言葉で あっても -- ときには聖書の文句がそのまま -- 冗談のたねに使われている。 その手の冗談は、もともとは子どもがしゃべったことをそのまま伝えているの が多いわけだが、子どもたちは純然として邪悪を知らぬがゆえに、そうした言 葉も神の前では咎を免ぜられるのであろう。しかしそんな無邪気の言葉を、自 分たちの卑しい楽しみの材料として意識的に用いようという向きについては、 話は別だろう。 もっとも、多くの場合には、こうした不敬は意識されざるものだ、とわたし は強く信じるものであることを、心からつけ加えておきたいのだ。(本書の第 八章で説明を試みたことだが、)「環境」が人と人との差異をつくるのだ。あ のような不敬な話の多くは、わたしにとっては聴くもつらく、お伝えするにも 罪を感じるものだけれども、かれらの耳には痛みを与えず、かれらの耳には痛 みを与えず、かれらの良心にはショックを与えない。かれらだって、わたしと 同じ誠実さで、祈りの言葉を口にすることができるのだ -- 「願わくはみ名の 尊まれんことを」(*26) 「心の苦難とあなたの言葉や祈りへの侮りから、ああ 主よ、われらを救いたまえ」(*27) -- こう考えることをわたしはよろこびと するものである。かれらと、そしてわたし自身のために、もうひとつ、キーブ ルの美しい祈りをつけ加えたい。(*28) 「きょう、そして日々われらの祈るご と、みそばに住まわせたまえ!」……あらたまった場で聖職者が不敬を口にす るという習慣をわたしが嘆くのは、不敬そのもののゆえというよりは、実のと ころ、その結果のゆえである。語り手と、それを聴く者の両方にとって、重大 な危険があるからである。信仰ある聴き手がこうした冗談話を聴いて面白がる、 それだけでも、聖なるものを尊ぶ心を失う危険に至る。さらに悪いことに、他 の人にもその話を受け売りして面白がりたいという誘惑も起こる。また、信用 ある護教者がかくも聴衆の信頼を裏切るのを目のあたりにするや、信仰なき聴 き手は、宗教とは寓話なりという自説に格好の自信を得るようになる。そして 語り手自身もまた、信仰を失う危険におちいることは間違いない。害になるな どとは思ってもみずにあんな冗談を口にしたのだと言うなら、その時は必然的 に、われらのすべての言葉を聞きたまう、生きた神の実在をも意識せずに冗談 をとばしているに違いないからだ。聖句を、そんなふうに意味も考えずに口に 出す習慣に甘んじている人にとっては、神は神話に、天は私的幻想になってし まい、いのちの光は失せ、自分が精神において「触れられるほどの真の闇」に 迷った無神論者になってしまったことを悟るだけだ。(*29) こんにち、神の名や宗教関連の問題を不敬に扱う傾向が大きくなっているよ うだ。ひどい聖職者を面白おかしく描き上演に付して、堕落への道を助長して いる劇場もあれば、聖職者みずからがこの動きを助けていたりもする。崇敬の 精神など祭礼衣とともに脱ぎ捨てることができますよ、教会の中ではほとんど 迷信じみた崇拝を払っている名前や物のことだって、教会の外でなら冗談扱い できるんですよと、かれらは示してみせているのだ。「救世軍」が聖なるもの を取り扱うときの粗野ななれなれしさは、全くの善意であったとしても、この 動きに大きく荷担しているのではあるまいか。誰であれ、「み名が尊ばれんこ とを」という祈りのうちに生きんと欲する者は、その精神を確かめようと思う なら、いかに小さなことでも、自分にできることをすべきである。 -- そういうわけで、この手の本の序文には似つかわしくない話題だったか もしれないけれども、こんな機会はめったにないので、永らくわたしの心にの しかかっている思いを表現させていただいた。第一巻の序文を書いた時には、 こういう文章が読んでいただけるものだとは、たいして期待していなかった。 しかし、わたしのところへ届いた証拠からみて、あれが確かに多くのかたがた に読んでいただけているのだということを、喜んで信じたいと思う。そして、 この序文もそうであってほしいと思う。わたしが述べた意見に喜んで共感して くださり、すたれゆく崇敬の心をふたたびこの社会によみがえらせるべく、祈 り、手本になってくださろうというかたも、たくさんの読者のなかには、きっ といらっしゃるはずだと思うのだ。 (序文おわり)◆ 【訳註】 *01 「第一巻」「前巻」とは、『シルヴィーとブルーノ(正篇)』 Sylvie and Bruno (1889) を指します。 *02 第一巻第一九章参照。 *03 それぞれ慣用では "can't" "won't" "traveller" と綴られます。作者 は三〇歳のころの作品『アリスの地下の冒険』でも、すでに自説を貫い ています。 *04 ここでいう「音節」とは、英語音のシラブルのことです。 *05 大文字で示した母音にアクセントがあります。 *06 "parallel" は、*paral という語幹に接尾辞 "-el" がついたため l を 重ねたのではなく、この語のもとになったギリシア語 "parallelos" に が "para" (傍らに、沿って)と "alleloi"(互いに)とから成ってい ることに拠ります。 *07 ページ数は『シルヴィーとブルーノ』(柳瀬尚紀訳、れんが書房新社、 1979)に拠ります。カッコ内は同書、ちくま文庫版(1987)。 *08 どちらも(内容はともかく)強弱七脚で韻も揃うので詩として成り立つ という意味。これらの詩は、続篇第二〇章に引き継がれることになりま す。 *09 第一巻の序文でも引用されたローマの抒情詩人ホラーティウスは、わず かな数の詩に無限の努力を注ぎ、作品の技巧的な完成を目指したといわ れています。 *10 第一巻第一一章。 *11 第二巻第一七章。第一巻第一六章で伏線されています。 *12 第二巻第二三章。第一巻第一〇章で伏線されています。 *13 物語の全体像を画家に示そうとしなかったのは、作者自身の意図です。 *14 「不気味な (eerie)」状態。訳語は夏目漱石「坑夫」の中から柳瀬尚紀 氏が発掘したものを借りました。 *15 第二巻の邦訳は存在しません。 *16 single-wicket. ゴールに球を打ち合う遊び。 *17 イーリーはケンブリッジ近郊ですが、「百マイル」という猛烈な距離か ら望遠してみせることで、笑いの対象をぼかしています。「バビロンか 何マイル」という子守唄をもじったもの。 *18 第二巻分については、ページ数のかわりに章数を記しました。 *19 イギリス国王が任命する宮廷詩人を「桂冠詩人」といいます。ここでは 作者の多大なる尊敬と軽蔑の的であったテニソンをさします。 *20 「おばあさんは、やかまし屋さん?」(Old Lady?) と訊かれた女の子は、 Old を文字通りに解したのです。 *21 第一巻で一度だけ出てきた長官の名前 Sibimetは、シューシューと空気 の摩擦する、sibilous な音を連想させます。 *22 第二巻第二三章。 *23 『シジジーズとランリック』(1893)。 *24 狩猟(=スポーツ)への疑念と悲しみは、第一巻の序文と第二一章でも 述べられています。 *25 作者の生まれたころに始まったオクスフォード運動(祭礼を重視する立 場)と高教会派を指しています。 *26 「主の祈り」(マタイ伝、第六章九節に由来)より。 *27 英国国教会祈祷書の「嘆願」より。 *28 ジョン・キーブルはオクスフォード運動の祖のひとり。 *29 出エジプト記、第一〇章二一節より。 Lewis Carroll (1832-1898): Sylvie and Bruno Concluded (1893) ------------------------------------------------------------ preface Japanese text copyright(c) by tubo_kun, 1994.